大時代区分4:接触と交流ネットワークの拡大

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紀元前1200年~紀元後500

大時代区分と3つの本質的な問い


 大時代区分3では、世界のいくつかの地域において人類が食料の生産を始め、社会組織の新しい形態を採用し、これまでの時代よりもずっと遠い地域と集中的に交易を始めていた。大時代区分4でもこうした形態は続き、むしろこれまでよりペースが速まっていく。人口は紀元前1000年頃くらいから増大を続け、紀元後早いうちにその増加は収まる。多くの都市が登場するようになる。大時代区分3においてもすでに登場していた国家は、その頃は単一の政府の権威の下に多くの人口を束ねる形として存在していたが、大時代区分4ではこうした国家は、より巨大になり、より複雑になり、そして多くの人々から税金をより効率よく収集することのできる新しい形態として現れるようになった。

 地域間交流の体系は、食料、技術、アイデアを、時には数千マイルも離れた場所にまで伝達することを可能にした。道、小径、常設航路のネットワークはそれぞれ重なり合い、そしてアフロユーラシアのほぼ全ての地域と結びついた。そしてアメリカ両大陸では、メゾアメリカの広大な地域や南米のアンデス山脈の山の背にそって、こうしたネットワークが形成された。こうしたルートに沿って伝達されることになったアイデアの中には、新しい信念体系があり、これが異なる言語と文化的伝統を持つ人々に、道徳性と信用についての共通の基準を共有するように求めていくことになった。

人類と環境

人類が莫大なエネルギーを費やして地球の自然や物質を自らの目的のために形作ろうとしている今日と比較するならば、大時代区分4はドラスティックな環境変化の時代ではなかったと私たちは主張するかもしれない。しかし、これは比較の問題である。この時代をこれまでの3つの時代と比較するならば、人類は加速度的に自然や地球に表出している地殻面から多くのエネルギーを抽出するようになったことは明らかである。このような人類の介在は、世界全体の農業生産の増大、そしてある面での生活水上の向上をもたらした。
 大時代区分2の小論において、私たちは「農業の外延的拡大(extensification)」と「農業の集約化(intensification)」の概念を紹介した。大時代区分4の時代、「農業の集約化」は、かつて食料採集者しかいなかった(人類がいればの話だが)世界の地域のいくつかに、農業や放牧が持ち込まれることになった。こうした地域で農業や放牧が生れ、社会集団の規模、密度、複雑さは意味がある成長をした。こうした地域として、アフリカ南部、ユーラシア大陸北東部の草原地域、中国の長江流域、オセアニアの一部(太平洋の島々)、メゾアメリカ、そして南米アンデス山脈地域がある。

技術
 これらの発展を可能にする新しい道具と技術には、食料用穀物の品種改良、そしてアフロユーラシア地域の場合、家畜としてより長距離移動に適している馬やラクダといったことが含まれる。おそらくこの時代において最大の発明を一つ上げるとしたら、製鉄技術であろう。紀元前2000年前くらいから、南西アジアや東アフリカの人々は、鉄を溶かして、役に立つ形に変形させる方法知を、それぞれ別々に獲得した。この技術はすぐにアフロユーラシア全土に広がった。
 結果、農民たちは鉄製の斧、鋤、鍬などを生み出し、数万エーカーの不毛の地の開拓を行った。都市の職人たちは鉄製ハンマー、のみ、のこぎりを使って木や石を使った巨大建築を行った。君主は鉄製の武器と防具を備えた兵士をますます訓練した。また別の点から、私たちは大時代区分4が世界全体に大きな技術変革をもたらした時代と真に主張することはできない。車輪、陶器や馬具制作の技術といった基本的な発明のほとんどは、すでに登場していたのだから。また基本的な発明は必ずしも世界全体に広がったわけではない。例えば鉄の冶金は両アメリカ大陸、オーストラリア、オセアニアまではこの時代には伝わらなかった。

人口増加
 農業爆発と密接に結びついた一つの根本的な発達は、人口増加である。紀元前1000年から紀元後1世紀の間までに世界ジン子は約1200万人から2500万人に増えたようである。出生率も上昇した。紀元前3000年から紀元前1000年までの間、だいたい1600年をかけて人口は2倍となった。しかし紀元前1000年から紀元後1世紀までの間では、約1000年の間に人口が2倍となった。 紀元前1000年から紀元後1世紀までの間の人類の生物学的成功の一つの要因は、人々が常時相互交流する土地において、彼らは緩やかに感染病への免疫を共有してきたことにある。これは特に人口が密集していた南西アジアや北インド、北部中国で生じた。より強靭な免疫は繰り返し生じてきた伝染病による人類死滅を回避させ、人口の上昇率を急速に上げた。しかし何らかの新しい疫病や病弊が外部から入り込んでくると、深刻な伝染病が生じて人口は急落することになった。

環境の影響:森の運命
 人口が増加するのに合わせて、彼らが環境に及ぼす影響も大きくなった。大時代区分4における森林伐採のペースは20世紀のそれと比べればとてもゆっくりとしたものだったかもしれないが、明らかにそのペースはこれまでの時代よりも加速した。農業、燃料、放牧のための森林伐採は、より多くの人間が与えられし土地に生活することを可能にした。しかし長い年月を通しての森林伐採は、塩害を生み、慢性的な燃料不足を生み、定期的な飢餓を生み出し、いくつかの地域固有の動物や植物種を絶滅に追いやった。森林伐採と焼き畑、そして水田耕作もまた、地球環境の変化に手を貸すことになった。
 私たちは、大時代区分4において、農民たちが地中海沿岸、西ヨーロッパ、東アフリカ、ガンジス川流域、中国、その他地域において本格的な規模で森林伐採や焼き畑をしたという顕実なる考古学的な証拠を有している。メゾアメリカやアンデス山脈では、社会がまだ鉄製道具を有していないし、もっと後の時代になるまで大型家畜を有することがなかった。しかしこの二つの地域も森林伐採は着実に進んだ。というのも、これらの地域社会は人間の筋力を最大限かつとても効率的に活用することを学んだからである。


人類とその他の人類

 大時代区分4の間に世界人口は2倍となったが、これは農業人口の人口密度を増大することと併せて生じており、このことは多くの場所で人間は、社会的・経済的・文化的関係を組織する新たな方法を実験する他に選択肢がなかったことを意味するものである。その一つに、この時代の始めに比べて、この時代の終わり頃までにより多くの人間が都市に住むようになったのである。
 このことは、ほぼ大半の人々が都市に住んだとか、都市の成長は着実かつ何の干渉もないものであったといったことを意味するものではない。都市の人口は増減を繰り返した。実際、農業生産や長距離の貿易、疫病の広まり、政治状況、その他要因からの地域の変化と併せて、都市が生れたり消えたりした。以下の表は私たちに、紀元前1200年から紀元後500年までの世界の都市化の一般的なパターンについて何らかのことを教えてくれるものである。

 西暦 大都市の数  大都市の規模   大都市の規模
 紀元前1200年  16  2万4000~5万人  49万9000人
 紀元前650年  20  3万~12万人  89万4000人
 紀元前430年  51  3万~20万人  287万7000人
 紀元前100年  75  3万~45万人  518万1000人
 紀元後500年  47  4万~40万人  389万2000人

 都市化は着実に紀元後1世紀まで続いているが、その後の400年の間に都市人口は減少していることを私たちは確認できる。私たちは明らかにこの人口の急上昇を、いくつかの大帝国や大国家の登場と結びつけることが出来るのであり、これらの国家や帝国はすべて大規模な農業的、鉱物的、商業的冨を蓄積していた。紀元後2世紀以降の都市の人口減少は、部分的には、疫病の蔓延、巨大帝国の衰退、主な農業地域の経済的衰退の拡大といったことが原因であった。

都市の多様化
 アフロユーラシアにおいて、都市の成長と多様化は、都市同士が(時として遠い都市同士が)強力な商業的な結びつきの増大を生み出したことによる。紀元後100年頃、世界の二大都市はまず確実にローマ(100万人が住んでいた)と中国漢王朝の洛陽であった。紀元後3世紀から生じたこれらの都市の人口減少は、間違いなく漢王朝とローマ帝国の衰退と関係があった。
 大時代区分4のほとんどの都市は多機能的であり、政治・宗教・貿易・手工業・教育・芸術活動の中心として機能した。ローマ、アレクサンドリア(エジプト)といったいくつかの都市では、これら全ての機能が同時代的に展開した。その他の都市はより特別な目的を持つことが多く、例えば地中海沿岸の諸都市やユーラシア大陸の内陸の都市は、主に交易ルートの中継をすることが主な働きであった。
 ここ数十年の古代の両アメリカ大陸の考古学的研究は、都市化がこの地域でもかなり昔から生じていたという証拠を積み上げてきている。ノルテ・チコとして知られるペルー海岸に30マイルに亘る遺跡において、研究者は30もの小都市を調査研究してきた、これらのいくつかは紀元前3200年より前に建設されたものであった。これらの最も古い都市群は、メソポタミアのシュメールを除いてまだいかなる場所にも都市が存在していなかった頃のものである。少数の貴族によって支配された複雑な社会の様子(輪郭)が、儀式実践と巡礼地の中心地であるチャビン・デ・ファンタル(この都市の建設は、北部ペルーのアンデス山脈の高地にて紀元前800年頃始まった)の破壊の折にはっきりと目撃されている。私たちが知るところの最も古いメゾアメリカの都市は、メキシコ湾の熱帯地域に紀元前1350年頃に登場しているものである。この都市は、サン・ロレンツオとしてその破壊が知られているが、150フィートの高さと約3分の2マイルもの幅のある広い人工的な中央舞台が特徴である。この都市も、そしてこの地域の衛星都市も古代オルメカ社会と結びつきながら発展していった。これらの都市は、アメリカ両大陸において、少数の貴族が農民や狩猟採集者といった一般市民に対してある種の永続的な権威を発揮した最初の場所だったのかもしれない。紀元後600年までに、現在のメキシコシティの地域にあるテオチュワカンもまた15万人以上の人口を有していたかもしれないのだが、ここもその時代の世界最大都市のトップ10の1つに数えられる規模である。

巨大帝国
 かつてない規模の国家が大時代区分4では誕生する。なぜなら支配者が彼らの首都からより遠い地域まで中央の命令システムを拡大することを可能にするような新しい技術が誕生したからである。これらの進歩の一つが、乗馬技術の完成である。アフロユーラシア全土で、武装した騎兵がほぼあらゆる地勢でも馬を操ることが出来るようになり、軍事的侵攻の手段として二輪戦車に取って代わった。平和使節や国の情報伝達者(メッセンジャー)と同様に兵士も政治的命令や生々しいニュースを馬によってこれまで以上に素早く伝達することができるようになった。
 帝国の拡大に貢献したその他の技術革新としては、道路建設の改善(ペルシャ帝国やローマ)、運河の建設(中国)、そしてアフリカから北西インドにかけての乾燥地帯における重要な交通用動物としてのヒトコブラクダの登場といったことが挙げられる。
 以下の表は紀元前1000年から紀元後500年までの間に登場した3大巨大帝国である。その領土は今日の大陸国家である合衆国に匹敵する。

国  だいたいの時代   国家の広さ(だいたい)
 漢  紀元前50年ごろ  250万9000平方マイル
 アケメネス朝ペルシャ  紀元前500年ごろ  212万3000平方マイル
 ローマ帝国  紀元後100年ごろ  169万8400平方マイル
 大陸国家合衆国  現在 302万1296平方マイル 

 これら古代国家は大きいという理由だけでなく、単一の政府、特定の出自を持つエリート階層(漢民族、インド=イラン語を話すペルシャ人、ラテン語を話すローマ人)が言語的・民族的・宗教的アイデンティティが多様な人々を統治するという理由からも、「帝国」と呼ばれる。
 大時代区分4の時代、世界の人々の大半はおそらく帝国の国境内には住んでいなかっただろう。都市国家、つまり単一の都市を軸とした比較的小さな統治領域で生活した者たちもいただろう。地中海沿岸のギリシャやフェニキアの都市国家は明らかにそうした事例である。またその他多くの人々は国家の権力の及ばない、血縁関係で組織された社会で生活した。
 それにもかかわらず、紀元後100年頃のアフロユーラシアを見渡すと、国家が大西洋から太平洋にかけてほとんど連続的に鎖のように連なっており、それらの多くは巨大国家である。これら全ての具には政治秩序と経済繁栄を長期間謳歌することになり、これらの状況は国内だけでなく国家間の製品やアイデアについての長距離の交易を刺激した。 
 大時代区分4、特に紀元前300年頃から紀元後300年ごろまで、商人、荷主、ラクダの案内人、船長たちはユーラシア大陸内陸のシルクロード、地中海と黒海とインド洋の入り江にまで交易ルートを広げ、またこれを強化した。またこの時代の終わりの数世紀においては、サハラ砂漠を横断するラクダのキャラバン貿易が始まり、アフリカの熱帯地域の人々と地中海の縁とを結ぶことになった

社会の形成
 大時代区分4において、世界の人口の大半は、農民や遊牧民、狩猟採集者であった。彼らは必要なもののほとんどを自分で作って生活をした。彼らは今日と比べて短い人生であった。ただしより大きな人口の多い都市や国家には、膨大な量の冨が集中し、こうした冨や権力、特権を所持する少数のエリートとそれ以外の人々との間の社会階層の開きはより大きく厳しいものとなった。都市社会の内部でも、必ずしも政治的な特権や権力はあまり有していなかったとは言え、商人、職人、学者、その他実質的に富を蓄積する特殊技能を有する人々がいたかもしれない。
 社会階層の最下層は奴隷であった。この時代は奴隷制が広がった時代であり、特に地中海沿岸の多くの地域で組織化した奴隷貿易の拡張があったことは間違いがない。たとえば、紀元前1世紀の終わりに誕生したローマ帝国は奴隷がその中核を担っており、総人口の40% を占めていたかもしれない。
 大時代区分4におけるすべての都市化した社会において、成人男性は、私たちが知っている限り、政治的・社会的生活を支配していた。日常生活の男女の合理的な平等的関係を見つけ出すためには、放牧民や狩猟採集の民、その他小規模農民の社会を訪れないといけなかっただろう。大国家や大帝国において、社会階層の最上位にいる女性たちは比較的に自由に発言ができ、外出や蓄財の自由も最大限あり、政治的な事柄に影響を与える自由もあったようである。


人類とアイデア

 大時代区分3の時代に登場した筆記のシステムは、人間の集団的学習のスピードと領域を大きく向上させた。しかし、これらの筆記システムは表語文字だった。つまり、彼らは意味を表す表象、または文字を採用した。したがって、彼らは何千ものばらばらの表象(筆記文字)を必要とした。これらの表象や文字はそれぞれが個別の意味を持つ。このような筆記体系は人々が正確かつ慎重な方法で意味を表現することを可能とする利点があった。
 しかし大時代区分4において新たに開発されたものは、初歩のアルファベットの書記体系の姿であった。ここの中で用いられる記号は、そのほとんどが意味ではなく音を表現するものであった。意味は何万もの方法で表現できるかもしれないが、人間が自らの唇や舌を使って表現するできることのできる数は実にわずかである。そのためアルファベットのシステムはほんのわずかの記号に頼るのみである(例えば英語の場合26文字、アラビア文字の場合28文字である)。にもかかわらず、これらの記号は無数の方法で人間の考えのニュアンスを表現するように整理することを可能とした。
 私たちの知るところの初期のアルファベットは、アジア南西部で紀元前1000年より前に登場した。次の数世紀の間に、このシステムの変形版が地中海沿岸からインドにかけて広がっていった。人々は、表象文字よりもずっと迅速かつ容易にアルファベットを習得することができた。そのため、大時代区分4において人々、特に学者、聖職者、役人、承認の文字読解力は急速に拡大したが、普通の農民や労働者にはまだだった。アルファベットのシステムは完全に表象文字に代わることはなかった。中国の漢字は現代の表象文字の主要な事例である。

宗教
 大時代区分4のもう一つの発展、そしてこの筆記の拡大と関係のあるものとしては、異なる言語や文化的伝統を持つ人々を包括するいくつかの信仰のシステムが登場したことである。私たちはこれをしばしば「世界宗教」と呼ぶ。この時代の大多数の人々は地域宗教を実践しており、地域の神と女神、自然における神聖な場所、占星術、魔法、そしてシャーマ(自然世界と超自然世界との間を仲介する個人のこと)の呪文がその中心にある。大帝国や大国家において、宗教的生活は多様なものになる傾向にあるが、支配者はその主体を超自然的な力を有している個人、または神聖な存在ですらあると考えようとする誘惑に逆らうことができなかった。例えば、ローマが共和国から広大な独裁帝国へと移行した時、その指導者は、自らを普通の人間から神へと変換することになった。
 かなり初期の段階から人々は地域単位で宗教的な生活をする事に事欠かなかったように思われるが、ではどうしていくつもの大規模の信仰システムがこの大時代区分4の時に登場することになったのだろうか。一つ考えられることは、紀元前500年頃までにアフロユーラシアの人口と商業と文化交流がある程度のレベルに達して、道徳や共有されるべき信仰の大規模システムを必要とするようになったといったことがある。新しい宗教的システムは、彼らのローカル地域をはるかに超えて互いに交流し、アイデアを分かち合い、ビジネスを行う人たちの間で、異文化コミュニケーション、道徳的な期待、そして個人的な信頼の基盤をもたらすものである。しかし新しい信念体系は決してすべてが同じではない。それぞれの宗教が人間の条件についての永続的な問いに異なる答えを示したのであり、礼拝、儀式、および共同生活について異なる方法を提供したのである。次の表は、大時代区分4の時代に登場した新宗教に関するいくつかの基本的な情報を示している。

 信念システム  外観の時間  故郷
 仏教  紀元前5世紀  北インド
 キリスト教  西暦1世紀  南西アジア
 儒教  紀元前5世紀  中国北部
 道教  紀元前5世紀  中国北部
 ヒンドゥー教  紀元前1世紀初期  北インド
 ユダヤ教  紀元前1世紀初期  南西アジア

 仏教、キリスト教、ヒンドゥー教、ユダヤ教、道教これら全てが自己変革や永遠の救済に何等かの形でいくつかの方針を示した。キリスト教およびユダヤ教は最も厳格な一神教であり一つの全知全能の神の存在を宣言している。ヒンドゥー教は多数の力強い神や女神に機会を与えた。仏教や道教も様々な神聖な存在を様々な形(または化身)の存在で受け入れている。しかしキリスト教やユダヤ教のように、仏教、道教、ヒンドゥー教は、ただ一つのすべてを包括する宇宙的現実を想定している。
 仏教とキリスト教は普遍主義を重視して全ての人々を魅了し、どちらも倫理的・言語的境界線を越えて広がっていった。大時代区分4の最後までの間にユダヤ人の共同体は解体され、ディアスポラがアフロユーラシアの近隣へと流出したにもかかわらず、ユダヤ教はヘブライ人と彼らの先祖との同一意識を保持し続けた。6つの宗教すべてが、人間関係は、親切心、無視無欲、礼儀といったことによって導かれるべきであると教えている。孔子の教え(これについては一つの宗教ではなく一つの倫理体系として特徴づける研究者もいる)は、特に公的道徳的行為、善き政府、社会的責任を強調していた。
 これら6つの信仰体系は、当然のことながらそのほかの点でも対照的なものとなるかもしれない。一般的信仰と実践という観点から言えば、それぞれどれが欠けても、他の宗教が成り立たない。またそれぞれの伝統の中で、地域の文化的傾向や社会環境次第で重要な変形が生れてきた。例えばキリスト教の伝統においては、いくつかの異なる信念と実践を持ついくつかの「教会」が紀元後1世紀から10世紀ぐらいまでにかけて登場した。これらの教会には、東部 (ギリシャ語) 正教会、カトリック、アリウス派、ネストリウス派とエチオピアの教会が含まれる。アフロユーラシアにおいて、大時代区分4ではない時代に誕生した主要な信仰体系はただ一つ、イスラム教だけである。これだけ紀元後7世紀に登場したのだ。

哲学
 これらすべての信仰体系は、物質的自然的世界の構造や意味を吟味することを奨励しているという点で哲学的な側面を有している。こうした信念体系は、私たちが科学の初歩として関係づけるような種類の探究や推量と合致しないわけではない。例えば、エーゲ海地域では、ギリシャ語を話す学者たち(紀元前1000年頃において彼らの宗教は、大家族からなる神々を含んだものである)は、自然哲学として知られる科学的で道徳的な問いかけの方法を開発した。ヘレニズム、つまりギリシャ語や文化をベースにした思考体系や創造性によると、人間の理性は自然、宇宙、または心理現象を説明することのできる一般理論を生み出すのに活用することができるとされる。こうした思想家たちは、自然の中の普遍的な形態を見つけ出そうと努力することと、神が根源的にそれらを支配しているのだといった確信との間に、何らの矛盾も感じることがなかった。

大きな時代4の教授単元
パノラマ単元

 4.0  交換と出会いのネットワークの拡大  教授単元の要約 パワーポイント 

ランドスケープ単元

4.1  地中海からインドへ:権力と貿易の諸形態
紀元前1200年~紀元前600
 教授単元の要約 指導計画 
 4.2  東アジアの複雑な社会の拡大
紀元前1200年~紀元前300
 教授単元の要約  指導計画
 4.3  アフリカ・サハラ砂漠南部での移民と変化
紀元前1000年~紀元後200
 教授単元の要約  指導計画
 4.4  地中海からインドへ:ギリシャ人の時代とペルシャ人の権力
紀元前600年~紀元前200
 教授単元の要約  指導計画
 4.5  アフロユーラシアの巨大帝国
紀元前300年~紀元後200
 教授単元の要約  指導計画
 4.6  帝国と都市:両アメリカ大陸の国家群
紀元前800年~紀元後500
 教授単元の要約  指導計画

クローズアップ単元

4.2.1  中国の信仰体系:儒教、道教、仏教
紀元前581年~紀元後1368
 教授単元の要約  指導計画
4.4.1  仏教の誕生          
紀元前563年~紀元後150
 教授単元の要約  指導計画
4.4.2  ペルシャ人による圧迫:ペルシャ帝国
紀元前550年~紀元前479
 教授単元の要約  指導計画
 4.5.1 ローマの芸術と建築
紀元前500年~紀元後400 
 教授単元の要約  指導計画
4.5.2  ローマの奴隷
紀元前100年~紀元後450
 教授単元の要約  指導計画
4.5.3  古代ローマにおける女性の生活
紀元前200年~紀元後250
 教授単元の要約  指導計画