4.1 地中海からインドまで:権力と交易のパターン

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なぜ、この単元か?
 紀元前1200 年~紀元前 600年まで、変化が加速した。インドから地中海にかけての地域における製鉄技術の導入により、兵士はより致命的な武器を行使できるようになっただけではない。製鉄技術また、農民に木製農具では歯が立たないような堅い地面を耕すことができる鍬を与えた。製鉄の技術は間違いなくこの時代の人口成長の要因だった。フェニキア人ややギリシャ人の交易者たちが商品、人、技術、アイデアを輸入したり輸出したりするために地中海を交差していたように、交易のネットワークは拡大した。こうした交易ネットワークは結果としてその他の交易ネットワークと結びつき、北ヨーロッパ、アフリカ、およびアジアの奥深くまで達した。フェニキア人が最終的に私たちのアルファベットとなる文字の速記システムを使用し始めたのもこの期間だった。政治的地勢で見ると、小国家が数億存在していたとは言え、巨大国家も生れたり消えたりしていた。エジプトは別として、紀元前 1200年における地中海の支配的な権力が存在しない状況は、600年後にもまだ続いていた。同時期、2つの主要な世界宗教――ユダヤ教とヒンズー教――が生れた。

単元目標
 この単元を終えることで、生徒たちは次のことができるようになる。

.地図上の次の場所を位置付けることができる――イベリア半島、アナトリア半島、レバント、ガンジス川、チグリス川、ユーフラテス川、ナイル川、紅海、エーゲ海、ペルシャ湾、カイバル峠、ニネベ、バビロン、エルサレム。

2.製鉄技術が、インドから地中海にかけての地域に与えた影響について説明できる。

3.フェニキア人について認識し、インドから地中海にかけての貿易に彼らが与えた影響について説明できる。

4.アッシリア帝国の位置を認識し、アッシリア人が帝国をどのように拡大し制御してきたのかを説明できる。

5.フェニキアの貿易ネットワークとアッシリア帝国との関係を説明できる。

6.一神教と、そのヘブライ人やユダヤ教の出現との関係を明らかにできる。

7.インドのカースト制度が紀元前1000年頃に登場したことの重要性(意味)を明らかにし説明することができる。

8.ユダヤ教とヒンドゥー教の宗教的信仰の違いと共通性をいくつか挙げることができる。

時間と教材

6つすべてのレッスンを行う場合は、約3~4時間の授業が必要となる。もし宿題で内容について読んでくるようにするのであれば、授業にかかる時間は大幅に削減できる。もしレッスン1だけが議論されることになるなら、3045分で終えることができる。レッスン1345、および 6には、指導上の必要や授業時間などに合わせて混合させることも可能となる授業と生徒用用ハンドアウトが含まれている。

教材地図、生徒用ハンドアウト、紙と鉛筆。

歴史的文脈
 紀元前1200年~紀元前600年にかけて、インドから地中海にかけての世界では大きな変化が生じていた。これより前、エーゲ文明はミケーネ文明に支配された。紀元前1200年までに、ミケーネ文明の力は消え失せ、地中海の東側は「海の民」の波に略奪された。「海の民」はその後200年以上に亘ってヒッタイト帝国の衰退を生じさせ、レバント海岸の諸都市を略奪し、エジプトにまで侵入した。こうした略奪行為が生じてから、レバントでは小国家が栄えるようになり、アッシリアはその影響力を拡大してこうした諸国家を吸収し、エジプトにまで迫った。その間、攻撃的なアッシリアでもここまでは到達しなかった北インドでは、農業王国がガンジス川流域で発展した。
 紀元前1200年~紀元前1000年にかけての混乱の後、交易は回復し拡大した。運搬用のラクダ、馬、ラバの活用が増大し、そのことが陸路での交易を刺激した。一方ペルシャの貿易商は地中海東部の船頭を支配し、その到達点をスペインやブリテン島にまで広げた。このようにどんどんと相互につながりを持つようになった世界にアッシリア人は割って入ってきて、紀元前750年までに、世界が知る中でももっとも巨大な帝国の一つを築くことになった。
 こうした間にも製鉄技術は広がった。一方で製鉄技術は農民の生産を拡大することを可能にし、人口増大を下支えすることができた。生産の増大は農作物の余剰を意味するのであり、農業ではなく特殊専門職に就く人々を食べさせることを可能にし、インドから地中海にかけての地域に新たな都市を築かせ、そのスピードを加速させた。また別の面として鉄は安価で量も豊富であり、そのため鉄はより多くの王侯貴族の手に軍事力をもたらした。
 紀元前600年までに、世界はそれより600年前と比べてずっと複雑になった。エジプトを除いて主だったプレーヤーはどれもかつてと同じではない。アッシリアの力も崩壊し、インドから地中海にかけての政治地図は新たな形を描くことになった。

 このカリキュラムにおいて、インドから地中海にかけての地域というのは、インド亜大陸の北部から西に広がり地中海沿岸にまで広がる陸と海の帯のことである。この地域は大乾燥地帯を横切っており(またベルトの中心部分にそれがあり)、乾燥地帯と準乾燥地帯はアフロユーラシアを南西から北東にかけて広がっている。インドから地中海にかけての地域は、いくつかの統一した地理的・環境的特徴によって定義づけられており、このことが、この地域に農業、そして後には農業国家が集中した理由を説明することを助けてくれる。この地域はだいたい平均的に緯度の狭い範囲にある。この地域の陸地はすべて同じ日の長さ、夜の長さ、太陽暦内での四季の存在を共有している。このことは、これらの土地が一般的に年間気温、同じ植物個体群、同じ動物の生息が見られる類似した領域を共有していることを意味している。この地域には、あまりに高い山やその他自然障害がコミュニケーションや移動を妨害しているわけではない。地中海、黒海、紅海、ペルシャ湾をそれぞれインドから地中海にかけての地域の内部にある「湖」と考えてみて欲しい。

           レッスン1 時代をマッピングする
手順

A)もしこれは紀元前1200年~紀元前600年のインドから地中海にかけての地域をカバーするために用いられる唯一のレッスンであるならば、
 
1.生徒たちをいくつかのグループに分け、それぞれのグループに生徒用ハンドアウト1.11.2を配布しなさい。

2.生徒たちにハンドアウト1.1とハンドアウト1.2の地図を比較するように指示しなさい。ハンドアウト1.1における主な政治権力の一覧を作成するように生徒に指示しなさい。またハンドアウト1.2における主な政治権力の一覧を作成するように生徒に指示しなさい。この二つの一覧に見られる違いが生じた原因として考えられる理論について、思いつく限りをブレインストーミングするように生徒に指示しなさい。そしてその理論についてノートに書き出すように彼らに指示しなさい。一人の生徒を書記として選び出し、残りの生徒にはグループで互いの理論を比較させ、またその理論について黒板に書き出させなさい。

3.前の頁の「歴史的文脈」の節を生徒に配布しなさい。生徒に黒板に上がった理論の一覧を見るように生徒に指示し、そしてどの理論がこの小論の中の歴史的情報とマッチするか考えるように指示しなさい。

4.この単元の別の地図(生徒用ハンドアウト4.15.45.56.2)ハンドアウトとして配布、またはオーバーヘッドで示し、こうした背景的知識とこれらの地図とを関係づけながら、これらの背景的知識について議論しなさい。

5.評価:紀元前1200年~紀元前600年のインドから地中海にかけての地域の政治権力の変化について説明する小論文を作成するように生徒に指示しなさい。

B)本レッスンを、あなたの教科書やこの単元の他のレッスンと沿うものになるように、

1.生徒をいくつかの小グループに分けて、それぞれのグループにハンドアウト1.11.2を配布しなさい。

2.生徒たちにハンドアウト1.1とハンドアウト1.2の地図を比較するように指示しなさい。ハンドアウト1.1における主な政治権力の一覧を作成するように生徒に指示しなさい。またハンドアウト1.2における主な政治権力の一覧を作成するように生徒に指示しなさい。この二つの一覧に見られる違いが生じた原因として考えられる理論について、思いつく限りをブレインストーミングするように生徒に指示しなさい。そしてその理論についてノートに書き出すように彼らに指示しなさい。一人の生徒を書記として選び出し、残りの生徒にはグループで互いの理論を比較させ、またその理論について黒板に書き出させなさい。

3.前の頁の「歴史的文脈」の節を生徒に配布しなさい。生徒に黒板に上がった理論の一覧を見るように生徒に指示し、そしてどの理論がこの小論の中の歴史的事実とマッチするか考えるように指示しなさい。

4.評価:この時代(紀元前1400年~紀元前1200年)についての歴史家の視点を説明した簡潔な文章を書くように指示しなさい。

5.あなたの教科書に戻る、またはレッスン2~5に進むか、それの両方をしなさい。


ハンドアウト1.1 紀元前1400年頃の地中海世界の政治権力(地図)(英語版へ)

ハンドアウト1.2 紀元前1200年頃の地中海世界の政治権力(地図)(英語版へ)



                レッスン2 冶金ー鉄ー
手順

1.生徒を2人1組、または小グループに分けなさい。次の手がかりを用いてブレインストーミングをしなさい。
a)人間が最初に利用した鉱物は何か。その理由は何故か。
b)青銅(ブロンズ)とは何か。
c)青銅を作ることが出来るようになる前に、どんな技術が必要になったのか。
d)他の鉱物と比べて鉄を生産することが難しい理由は何だったのか。
e)鉄を生産することが出来るようになるには、どのような技術が必要とされたのか。

2.生徒用ハンドアウト2.1を配りなさい。そして生徒に(教室の単位でもグループの単位でも良いので)次の問いのいくつかについて考えるように指示しなさい。
 a)あなたにとってなじみのある現代の科学技術の一覧を作成しなさい(インターネット、携帯  電話など)。こうした新技術の開発にはどのくらいのコストがかかっているのか。
 b)こうした科学技術はそれを開発する社会にどのようなメリットをもたらしているのか。こ   のようなメリットはどのくらい持続するのか。
 c)こうした科学技術の中のいずれの種類のものが、他の技術よりも社会により大きなメリッ   トをもたらすのか。
 d)一つの社会がなす技術革新が近隣の社会に与えるプレッシャーにはどのようなものがある   のか。
  e)より旧式の技術の価値と新しい技術の価値を、どのように比べるのか。
  f)新しい技術の価値が低減してしまう原因にはどのようなことがあるのか。
  h)ヒッタイトが製鉄の方法を秘密にしていたことについて、あなたはどう思うか。

評価
それぞれの生徒に、前述の議論と関係するような科学技術についての最近の記事をみつけてくるように指示しなさい。生徒にその記事の要点をまとめたレポートと併せて提出するように指示しなさい。

教師の背景知識
製鉄技術は均等に広がったわけではない。20世紀の社会においても、未だに石器を用いている人たちがいる。現代の科学技術もまた、均等に広がっていくわけではなく、他の技術に比べて急速に普及する技術というものもある。現代の科学技術の中には、特にインターネットのようにコンピュータとプロバイダーが必要で高価であるものは、途上国の普通の人々にとって購入しやすい値段になるのには比較的に時間がかかる。途上国の人がそれを入手するにはもっと時間がかかる。携帯電話のようなその他の技術については、もっと早く普及した。例えば携帯電話は、陸上での高額の電信網建設費用を必要としないで、国と国との間で必要となるコミュニケーションをもたらす安価な解決法となることが明らかとなった。インドでは、携帯電話が遠隔地域の農民が農産物を売る時に仲介業者を排除することを可能とした。今や多くの農民が購入希望者に直接電話し、価格交渉をし、代金を受け取っている。



レッスン2
生徒用ハンドアウト2.1【生徒用の読み物】

             冶金ー鉄ー


学者によると、人類の技術発展は、3つの時代に区分される。・石器時代(パリオリシックとネオリシック、すなわち、旧石器時代と新石器時代)、つまり、人類が、道具や武器として、石材を使った時代である。
・青銅器時代とは、人類が、石器の補充や代わりとして、青銅器を使った時代。
・鉄器時代とは、人類が鉄を利用した時代である。目的によっては、まだ青銅や石を使う事があっても、周りを見回せば、我々がまだ鉄器時代にいる事がわかるであろう。

 人類は、金属の存在が知られるようになった後も長い間、石と骨を道具として利用していた。金(通常は銀との合金)、銅(通常はスズとの合金)、そして鉄は、地表に遊離した状態で発見された。金と銅は、打ち延ばしが出来る程(簡単に形が作れる程)柔らかかった。しかしながら、その柔軟性のため、道具や武器としては非効率的であったのだ。

紀元前1900年までには、職人たちは既に、鉱石(金属を含有する石)を熱して、金、銀、銅、スズなどの柔らかい金属を取り除くことを習得していた。このプロセスを、溶錬と呼び、極めて熱い火力を要した。ほとんどの調理用の火力は、華氏1300度(約704.4℃)以上熱くはならなかったので、釉を扱う陶工たちが、初めて、そのように極めて高い熱に到達したと、多くの歴史家は考えている。鉱石から銅の塊を剥がすには、およそ華氏1475度(約801.6℃)の熱が必要であり、便利な形に鋳造できる液体の銅を得るには、約華氏2000度(約1093.3℃)の熱が必要である。そのような温度に達するため、初期の金属加工職人たちは、粘土で出来た吹き口のある革製の管を使って、炎の基部に向かって息を吹きかけ、火力を高めたのである。このような熱火には、木材があっという間に消費された。5キロの銅の溶錬に、700キロの乾燥木材が必要とされた。森林伐採と冶金術(金属の溶錬と成形)は、同時に起こったのだった。

 紀元前1500年頃までには、職人たちは、銅とスズを混ぜて、そのどちらよりも強度の高い金属である、青銅を作る事を習得した。青銅の使用によって、剣や鎧と同様に、丈夫な鍬、大工道具や台所用品を鋳造する事が可能になったのだ。

 より強力な道具によって、丸太を切って滑らかにして木材を作るような、新しい作業を遂行する事が可能になった。職人たちは、その木材を使って、家具、船、棺、二輪車、鎌、四輪車、そして錠を作ったのだ。石工たちもまた、青銅で出来た道具を使って、石を採石場から切り出し形を付けた。青銅製の鍬や大鎌は、農夫たちが農産物の余剰を生み出す事を可能にした。この余分の食物は、農地が必要な農夫でなく、専門の職業に就き村や町や都市に住む人々を支える事になった。青銅は都市化を助けたのだ。

 鉄は青銅よりも作るのが困難で、溶錬に必要な温度は、華氏3000度(約1648.8℃)だった。これだけの火力には、技術と木材がもっと必要であった。金属加工職人が炉を使ってそのような温度に達成したのは、紀元前1900年に遡ると思われる。しかし、3000度でも、鉄は液体にならないのだ。鉄を含む鉱石からは分離できても、不純物を含む混合物としてのみである。紀元前1400年から1200年の間に、ヒッタイト族は、間違いなく偶然に、鉄は、的確な時間量で繰り返し熱し、便利な道具にするためには、その後繰り返し打つ(鍛える)事が必要だと学んだ。職人が腕時計や置時計なしで、どうやって、どれだけの時間熱したり打ったりすれば良いか分かったのだろう?多分、祈ったり、彼の師から学んだ“魔法”の決まり文句を唱えたのだろう。

 鉄は、当時知られていたどんな金属よりも固かったので、鉄製の武器や道具を持つ者は、そうでない隣人たちよりも先端を進んでいたのである。鉄鉱物は、銅やスズよりも多くの場所に自然に発生した。鉄が足場を得た時には、ほとんど誰でも何処でも、鉄を見つけ、鉱物と交換できた。製鉄技術が西へ広まるにつれ、偉大な政治権力がメソポタミアから地中海(ローマ帝国)へ後に移行した事には、鉄の貢献があるのかもしれない。

 アナトリア半島のヒッタイト族は、製鉄の秘密を発見した最初の民族であったと考えられている。彼らは、紀元前1200年頃にヒッタイト帝国が滅びるまで、頑なに秘密を守った。その後、その技術は地中海の西側に素早く広まっていった。レバントからのフェニキア人の商人は、スペインや北アフリカへ技術を広めていった。その先、商人と入植者が引き継いでヨーロッパとブリテンへ広めたのである。

 職人たちは、中国で独立して製鉄技術を発明したのかもしれないし、または、技術がインド-地中海から広まって来たのかもしれない。ほとんど確実に単独的な発明が起こった場所としては、東アフリカのグレート・レイクの地域が挙げられる。考古学的な発見として、その地域の人々は紀元前900年にまで遡り、鉄を溶錬し、初期の青銅の技術の恩恵無しにそれを行っていた、と考えられる。また、東アフリカの熟練者たちは、槌で打ったり熱したりする追加過程無しに、少なくとも少量の鋼鉄を作るのに十分熱い炉の設計をした、世界で最初の人々であると思われる。西半球では、メソアメリカとアンデスの職人たちが、金、銀、そして後に青銅を専門にしていた。しかし、アメリカ社会は、1492年以降にヨーロッパ人によって紹介されるまで、鉄が無かったのである。

 インドから地中海にかけての地域では、鉄は農具と兵器の両者を発達させた。しっかり作り上げられた鉄製品は、青銅製品よりも強く、より鋭い歯を持ち、1単位を作り出すのにかかる費用が少なくて済んだ。より強力な鍬によって密な土壌を耕作することが出来るようになり、農作物の生産量は増加した。鉄製の武器は、青銅製よりも性能が優れていた。鉄の剣は青銅製のそれより、効率的に人間を切る事ができたし、鉄製の盾は、歩兵たちが重い鎧を捨てる事を可能にし、彼らを守ったのだ。歩兵たちは、重く高価な二輪馬車で戦場に向かうえり抜きの戦士たちにとって、むしろ難しい問題となっていった。

 紀元前600年までには、決して青銅に取って代わってはいないものの、鉄は、インドから地中海にかけての多くの領域に渡り、重要な日常用金属となっていた。しかし、そのいくつかの利点にも拘らず、製鉄技術には欠点がある。広まって行くにつれ、環境に次第に悪影響を及ぼしたのだ。鉱石の採掘は山腹に傷跡を残し、川を汚染した。燃料として木材の消費が進み、溶錬が行われた地域では、森林伐採が深刻になった。製鉄技術の成功はまた、鉱山で働く奴隷の需要を活性した。それは、人間と環境との関係がこじれて行く始まりだった。

            インドから地中海地域の冶金(推定)

 陶器  やわらかい鉱物 青銅  鉄 
 紀元前6500年  紀元前5500年  紀元前3000年  紀元前1200年



           レッスン3 都市化
手順

1.生徒を小グループに分けなさい。生徒にハンドアウト3.13.2を配りなさい。生徒にハンドアウト3.1を読ませ、「都市(urban)」や「都市化」の定義を生徒が理解しているかどうか確認しなさい。

2.ハンドアウト3.2を生徒に見るように指示しなさい。次の問いの全て、またはいくつかについて生徒に考察させなさい。

A)この表があなたに教えてくれる情報にはどのようなものがあるか、一覧にしなさい。
B)この表があなたに教えてくれない情報にはどのようなものがあるか、一覧にしなさい。
C)年代ごとの都市の数を示すグラフを作成しなさい。この増減についてあなたはどのような説明をしますか。都市の数を減らす原因、そして増やす原因、消滅させる原因にはそれぞれ何がありますか。
D)総人口の変化を表すグラフを作成しなさい。増減にはどのような傾向がありますか。二つのグラフは同じ変化をしていますか。この違いについて、あなたはどのような説明をしますか。
E)紀元前650年のニネベ(大アッシリア帝国の首都)は約12万人の人口があった。しかし紀元前430年の段階で、ニネベは3万人以上の人口の都市の一覧にすら載らなくなっている。一方でバビロンは紀元前650年において約6万人の人口だったが、紀元前430年には約20万人の人口にまで増えている。この根源的な変化をもたらした原因は何か。

   紀元前650年 紀元前430年 
 ニネベ  12万人 3万人 
 バビロン  6万人 20万人 

F)紀元前1200年において、2万人以上の都市は約16あった(このうち14はインドから地中海にかけての地域で、残りは中国である)。今日、中国は200万人以上の大都市が11あり、20万人~50万人の人口を持つ都市は159もある。では逆に、インドから地中海にかけての地域で今日最大の都市はどこか。世界最大の都市はどこか。

評価
生徒に「都市」「都市化」の定義を書かせるように求めなさい。その際、生徒にCDの活動の際に作成したグラフを見直すように指示しなさい。




生徒用ハンドアウト3.1【生徒用の読み物】

              都市化


紀元前1200年から600年の間にインド・地中海地域の様相を変えた要因の1つは、都市化、つまり街の設立と成長であった。農家が余剰(彼ら自身を養うのに必要な量以上)を生産するにつれて、熟練した職人は、司祭、大工、製パン、製織業者、および染色業者として専門的に暮らすことができた。農業では必要な土地は必要ないため、これらの専門家は村落に住み着く傾向があり、そこが貿易ルートに近かったり、またすぐに港があった場合、その村はすぐに都市に成長した。農村部に比べると生活は複雑であった。なぜなら、都市では異なる起源の人々が肩をこすり、アイデアを交換していたからである。新しいアイデアが流通し、より多くの新しいアイデア、すなわち技術革新を引き起こした。技術革新はより多くの雇用を創出し、より多くの雇用は繁栄をもたらし、その結果、人口増加がもたらされた。人口の増加は、より多くの都市化を生み出した。

 では、都市とは何だろうか?村や街とどのように違うのだろうか?都市という用語のほとんどの定義はかなり一般的である。社会学者は通常、人口密度(ある場所に住む人の数)を主要な要因と考えている。その数は歴史的な期間によって異なる。紀元前1000年には2万人が大都市を構成したが、その数は今日アメリカの非常に小さな都市になる。歴史的に遠く遡るほど、人口の数を確認するのが難しくなる。しかし、学者は考古学的なデータと現代の文書に基づいて人口を推定する方法を持っている。例えば、堅牢な壁の周径は都市人口の大きさを示すかもしれない。歴史文書は、地域の人口を推定するのにも役立つ。メソポタミアでは、楔形文字の書かれた粘土のタブレットがあり、そこには時に死者の数を記述することで都市の崩壊について語られている。さらに、ギリシャの学者ヘロドトスのような初期の歴史家は、広く旅をした。彼の著作物は、時代の都市や地域に関する情報の宝庫である。実際に、彼はニネベの壁の長さを毛長で記述している。今日、2,000年以上もの間、都市の大きさはまだ測定され、検証されている。場所も助けになるだろう。都市部が重要な貿易ルートに位置していた場合、その人口はそれほど混雑していない地域に比べて多い可能性が高い。

 この期間の人口統計は教育された推測だけであるが、古代の生活の規模と複雑さに思いを馳せることができる。初期の都市は、現代のものほど大きくはないが、当時の人々に印象づけるほど大きかった。紀元前2700年頃の粘土板で書かれたギルガメシュの叙事詩では、神々は洪水で世界を破壊している。人間は耐えられない程までに騒音の大きさを増やしていたため、神々はこのようにした。これは地球上の主神であるエンリルを苛立たせた。今日の都市人口の大きさと、車のクラクションの騒音に対して、エンリルはどのように思うのだろうか!

  紀元前1200年から1000年の間に、インドから地中海までの地域の都市数が減少した。半世紀の間に、エーゲ盆地から上流のティグリス・ユーフラテスまでのおよそ50の街や都市が略奪にあい、壊滅した。この破壊の原因は依然として議論されているが、襲撃者の波が黒海とエーゲ海の地方から東方に移動し始めたようである。一部は女性や子どもを含む多くの流浪の戦士から成る集団は、エジプト人が「海人」と呼んだように、陸と海の両方から攻めた。一部の歴史学者は病気、干ばつ、飢饉がこれらの動きを助長したと考えている。この不安定な期間は約200年続いた。

 紀元前900年までに、攻撃は沈静化し、様々なグループが落ち着いたように見えた。例えば、Pelesetはレバントの南海岸に沿って定住した。彼らはペリシテ人として知られ、その地はパレスチナとして知られるようになった。相対的な平和が戻ってくると、繁栄が続き、全地域で都市が繁栄し始めた。人口も同様に増加し始めた。これは、貿易を刺激し、地中海東部だけでなく、拡大する貿易ルートに沿って、繁栄をもたらした。

 約紀元前1400年頃まで、世界で最も大きな都市はインドから地中海にかけての地域にあった。しかしその頃、中国で都市が発芽し始めた。紀元前1000年までには、そこに少なくとも4つの都市があり、2万人以上が暮らしていた。




生徒用ハンドブック3.2【図表

      インドから地中海にかけての地域の都市化
 年代(紀元前) 大都市の数  大都市の人口  大都市の総人口 
 2250  8  20-30,000  220,000
 2000  9  20-65,000  323,000
 1800  10  20-80,000  375,000
 1600  13  20-100,000  448,000
 1360  17  20-80,000  542,000
 1200  14  20-50,000  464,000
 1000  10  20-50,000  407,000
 800  12  20-60,000  638,000
 650  24  30-120,000  715,000
 430  40  30-200,000  2,213,000





       レッスン4 貿易:フェニキア人

手順

1.ハンドアウト4.2を配りなさい。この地域の交易において困難となることについて議論するために、地形地図を活用しなさい。

2.この地図やあなたの教科書を用いて、次の場所を生徒に確認させなさい。

 〔地中海、イベリア半島、黒海、アナトリア半島、エーゲ海

レバント(地中海東海岸)、バビロン、カルタゴ(現在のチュニスの北15マイル)

テュロス、シドン、ガデス〕

3.生徒にハンドアウト4.1を配布しなさい。生徒にこれを読ませて、次の問いについて議論するように指示しなさい。

 a)どのような点でフェニキア人は今日の多国家間のビジネスマンと似ているか。
b)
今日のビジネスマンは外国でビジネスをするに当たって、どのように西洋文化を広げているのか。
c)彼らはどのように科学技術を伝えているのか。

4.世界地図やあなたの教科書の地図を用いて、生徒に次の地図活動に取り組むように指示しなさい。
a)地図の縮尺を利用して、テュロスとヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡の入り口の岬の名前)までの距離を測ってみよう。合衆国に置き換えると、どこからどこまでの距離に該当するのか。もしニューヨークからスタートするなら、同じ距離でどこまで行けるのか。あなたの住む町からだとどうか。
)紀元前5世紀の中頃、ギリシャの歴史家ヘロドトスによると、フェニキア人たちは錫を求めてブリテン島まで旅をし、そしてエジプトのファラオの命令でアフリカ大陸を一周したという。フェニキア人は、自らがアフリカを一周の旅をするために、途中で陸に寄港して植物を育て、それが成長するのを待って、それを刈り取り、そして再び船に乗る必要があると主張していた――このようにヘロドトスは記している。地図上に、フェニキア人がアフリカを一周したときの航路をたどり、またブリテン島まで到達した時の航路をたどってみよう。

評価
1.生徒に、すくなくとも2で挙げた場所のうち5つについて地図上で示すように指示すること。
2.この時代のビジネスにとって不可欠となる工場で働く労働者(染物屋、陶器制作者、船大工、船員)に向けて広告を書く活動をさせなさい。
3.社説、広告、特集記事を含んだ季刊新聞をグループで作成させなさい。




生徒用ハンドアウト4.1【生徒用の読み物】

          貿易:フェニキア人


 地中海東部において、貿易は紀元前1200年よりもずっと以前から繁栄していた。紀元前600年までに、貿易網はユーラシア内陸部、南西アジア、エジプト、そしてエーゲ海を結んでいた。非常に栄えていたこのシステムは、紀元前1200年頃に支配的な力を持っていた地域の崩壊によって破壊された。略奪者の波がこの地域に押し寄せ、都市を破壊し、未だはっきりとしない理由によって大混乱が起こったのだ。

  紀元前1000年頃になると、人々の暮らしはより安定し、貿易も再開した。この時期において最も成功していた貿易商人はフェニキア人達である。彼らはこの地域の商人の主導的立場にいた。前8世紀において、ギリシャの詩人ホメロスはフェニキア人(ギリシャ風にはPhaiákiansと綴る)のことを「かの有名な船乗り達、海犬達は(中略)通商のための派手な装飾品達を持って陸に降り立った」(オデュッセイア、第15歌:504506より)と説明した。旧約聖書のエゼキエル書は、フェニキアの都市の一つティルスのことを「海の入り口にたたずむ」街とし、「多くの島々の民が取り引きをする場」 (エゼキエル書27:3)であると記した。

  フェニキアという名前はギリシャ語を起源としている。これは「血のような赤」を意味し、フェニキア人達がホネガイの一種である小さな巻き貝から抽出していた紫色の染料を指していると思われる。1グラムの染料を製造するのに1万個の貝が必要とされた。(染め物作業によって夥しい数の磯臭い貝殻が消費されたのは、地域にとって深刻な悩みだったことだろう。)その染料は非常に高価だったため、富裕層のみしか手が届かず、ゆえに王の色として選ばれるようになった。

  フェニキア人は、ビブロス、テュロス、シドンを含む、城壁で囲まれた裕福な都市国家に暮らしていた。これらの都市の多くは現代のレバノンの波打ち際に位置し、山々や砂漠によって内部の東側に切り離されていた。彼らの生計は、自生のスギ材で作った大きく速い船に乗る海上商人に頼っていた。船には、風を操るための帆とたくさんのオールが積まれていた。ほとんどの船乗りは陸地が見えなくなるのを恐れて海岸に沿って航行していたが、フェニキア人達は北極星(ギリシャ人はフェニキア星と呼ぶ)を道標として使う方法を学んだ。大体において、彼らは海が静かで星も見えやすい夏の乾季に航行した。一般に、彼らが航行する時は大量の貨物船団という形を取り、海賊を威嚇するための戦闘船も従えていた。

  フェニキア人たちは北アフリカ沿岸に駐屯地を作り、大体一日置きに航行していた。これらの港は、生活物資の貯蔵や船の修理、また嵐の時には安全な避難場所として使われた。彼らは更に、内陸の通商路が断絶した海岸沿いに入植地を設置した。そこで彼らは地元の人々と貿易し、カルタゴといった場所は永久的な居留地へと発展していった。紀元前7世紀の終わり頃になると、幾つかの入植地は独立した都市国家へと成長した。

  紀元前11世紀頃から、フェニキア船は地元の生産物を輸出していた。材木、特にスギやマツ材は、あまり木々が豊かではないナイル川及びティグリス・ユーフラテス川の谷地から高い需要があった。もう一つの輸出物であるスギ油は、エジプトで防腐剤として高く評価された。ワインやナッツ、いちじく、杏、切りはめ細工を施された家具、吹きガラス、陶器、テキスタイル、そして染料といったその他の生産物は、北アフリカやヨーロッパ西部の一族や小王国を支配していた上流階級の人々に対して販売されていた。

  フェニキア人は、ヌビアから男女の奴隷や象牙を、エジプトからは何梱ものリネン、パピルスやロープを、アフリカからは北アフリカの通商路を通してダチョウの卵を、そして黒海からは琥珀を輸入していた。こういった外来の商品には、レバント及び拡大中のアッシリア帝国内で増加していた都会的な住民達が飛びついていた。

  アッシリアやエジプトによる金属、特に銀の需要は、はるか西方で貿易することの大いなる動機となった。硬貨の無い世界において、貴金属は万国共通の流通貨幣だったのだ。イベリア半島は、現代のスペイン、セビリアの西側を流れていたリオ・ティントの鉱山に豊富な銀を有していたことが分かっている。最初の頃、フェニキア人達は無知なイベリア人達と色付きビーズを交換することで銀を手にすることが出来た。しかし、イベリア人達はすぐに銀の本当の価値に気づき、より良い取引を求めるようになった。紀元前650年頃、イベリアにも新しく都会的な名士達が現れ、二輪戦車やガラス、象牙細工といった高価値なものを欲しがるようになった。フェニキアがイベリアでの銀採掘事業に対して時間や人員の投資を拡大していくにつれ、技術の移転も起きた。フェニキアの職人達は、求められる商品やサービスを供給するためにどんどんイベリアの居留地へ移り住んだ。間もなくイベリア人達自身も、鉄製道具のみならずフェニキア風陶器といった高価な輸入品のイベリア版を作れるほどの技術を身に着けていった。数十年前にはやっと青銅器が作れるかどうか、というところだったこの地域は、またたく間に鉄器時代に突入していったのだ。

  本質的に、フェニキア人たちは国際的実業家の先駆けであった。彼らの事業は都市政府及び宗教から支援され、広く地中海に支店を持っていた。彼らの主な寺院は、理想のティリアン王として偶像化されたバール・メルカルト(都市の王という意味)に捧げられていた。これは雨や嵐、そして繁栄の神でもあった。これらの寺院は、民間人が銀や物品を預け入れるための倉庫や銀行としても使われた。こういった寺院は多国籍企業の性質を受け継ぎ、複数の都市に別院を持っていた。僧侶は公証人も務め、計量・計測を標準化し、銀行業や倉庫業を監督した。結果として、フェニキアの神々は貿易商となり、イベリア人やキプロス人、アラム人やその他の人々もそれぞれの神と並んで受け容れるようになった。

  フェニキアの唯一かつ本当の競争相手はギリシャ人であった。増えゆくギリシャの人口は、岩の多いペロポネソス半島に点在する都市国家やエーゲ海の島々に居住し、食糧や土地が不足していた。そのため、ギリシャ人は人民を輸出し、食糧を輸入した。フェニキア人達が地中海の南方及び西方の沿岸侵略で忙しかった一方、ギリシャ人達は北方の海岸線沿い及び黒海を縁取るように入植地を作っていた。

  ギリシャとフェニキアは貿易と植民で競っていただけでなく、物品やアイデアの交換も起きていた。伝えられるところによると、ギリシャ人達はフェニキア人達から北極星の使い方を学び、また造船技術も真似たという。しかし、ギリシャ人がフェニキア人から得た最も重要なものは、彼らが荷札や記録に使っていた賢い記号符だろう。今日、このシステムはアルファベットと呼ばれる。これは恐らく、フェニキア商人達が使い始める数百年前に開発されていた。フェニキア文字は22文字あり、それぞれ子音を表していた。母音は読み手によって補われ、文脈に依っていた。例えば、誰かが「Lrg blck bx」と書いた場合、英語話者であればそれが「large black box」であると読み解ける。ギリシャ人はこの簡略表記法を採択し、母音の記号を追加した。最終的に、これは後世のアルファベットの幾つかとなり、まさにこのページに書かれている「ローマ字」もそこに含まれる。

  フェニキア人たちは貿易商人であっただけでなく、土木建設や工学の達人でもあった。フェニキアの都市は厚い壁で守られ、通常は海路でのみ出入り可能だった。建物の高さは6階建てまでになり、多くは屋上庭園を持っていた。水は井戸や市内の湧き水から供給され、包囲攻撃にも耐えることができた。ティルスに至っては、皮製の管を使って海底の湧き水を引き、新鮮な水をパイプで送っていた。ヘブライではソロモン王の時代、彼の友人であるティルス王のヒラムが木材と職人を送り、ソロモンのために巨大な神殿を作らせた。

  フェニキアの都市の繁栄は、戦争を避けたことに起因する。数世紀を通して彼らは戦火を避け、敵に進貢することによって独立を保っていた。しかしながら、前7世紀中盤において、アッシリアがレバントにあったフェニキアの都市軍を包囲し、進貢を強要した。アッシリア帝国は紀元前612年に崩壊したが、他の侵略者たちが続いた。北アフリカでは、現代のチュニジアにあるカルタゴや、現代のスペインにあるカディスといったフェニキア人の居留地が独立した都市となり、それぞれの利権や宿命を遂行していくこととなった


ハンドアウト4.2「紀元前750年~紀元前600年のフェニキア人とギリシャ人の交易範囲(地図)」




        レッスン5:帝国の建設:アッシリア人

手順
1.ハンドアウト5.1を配布して授業において(宿題でもよい)生徒に読むように伝えなさい。これについて教室で話合わせなさい。またハンドアウト5.35.4をOHPで示して、生徒の理解を促しなさい。

2.生徒を小グループに分けなさい。各グループにハンドアウト5.2を配り、アッシリア人の略奪品と、そしてアッシリア人の各主体が国に貢納していた貢物や税金について表にまとめるように指示しなさい。このリストの各項目(貢物、税金、戦争の強奪品)別にグループを分けて、調べさせ、次の問いに答えるためのノートを作成させなさい。
a)それぞれの項目はその資料につてどのようなことを教えてくれているのか。
b)アッシリアの特質について、それはどのようなことを教えてくれるか――アッシリアの社会、力、地理。
c)アッシリアの王様は、こうした物をどのように活用してきたのか。

4.明らかになったことを各グループに報告させなさい。

5.同じ項目について調べている場合、その回答を比較しなさい。

評価
生徒に次の立場からの日記を書かせなさい。
a.王様に地方の支配者からの貢物(もしくは貢物の未払)について報告する政府役人
b.自らが担当する地域で納められた税金(または納めれていない税金)について王様に報告する徴税人
c.戦争に価値、略奪してきた戦利品を王様に報告する将軍





レッスン5:生徒用ハンドアウト5.1

              帝国の建設:アッシリア人

 紀元前1200年〜紀元前600年頃におけるインドから地中海にかけての地域の発展の主な要因は、巨大なアッシリア帝国の成長である。アッシリア帝国の軍事力と政治方策、宗教と言語、そして広大な貿易網がこの時代を支配していたのだ。

  古代における帝国とは、独特の起源や言語、民族を背景に持つ選ばれし統治者(君主または皇帝によって率いられる)が、異言語を話す人々や異民族を支配する比較的大きな政治的単位である、と説明することもできる。アッシリアはティグリス川に位置する小規模な王国として始まった。紀元前650年には、軍事力によって南西アジアの大部分を征服した。

  アッシリアは何世紀も前に、現代のモスル近くのイラク北部で商業地として始まった。元々の土地の大きさはコネチカット州にも及ばない、5500平方マイルほどだった。アッシリアの文化は、既に存在していたメソポタミアのものを基礎としていた。アッシリア人は楔形文字を使い、ハンムラビ法典に従い、バビロンの神々に加えて彼ら自身の最高神アッシュールを崇拝していた。内陸に位置し、小麦畑の規模もやっとその人口を支えられる程度であったアッシリア帝国は、敵対する王国や山々に囲まれていた。紀元前1950年頃から、アッシリアの商人達は貿易ルートや地域に居留地を作り、遠いところではアナトリア半島にまで及んだ。

  紀元前15世紀には、アッシリア人は他の王国達の力に負け、独立国ではなくなった。紀元前14世紀に入ってからその力を取り戻したが、彼らはまだ内陸に留まっており、食料や金属、木材も不十分で、資源に乏しかった。しかし、以前のアッシリアの王たちとは違い、新しい王達は資源や市場を手に入れるため、より攻撃的な戦術を用いた。彼らは国防国家を築くことによって、紀元前1120〜紀元前606年の間において世界最大かつ最強の帝国となったのだ。

  その最大版図において、アッシリア帝国はエジプト、アナトリア半島の大部分、地中海の東端(レバント)、そしてティグリス・ユーフラテスの谷間を支配下に置いていた(配布資料4.1 参照)。通商活動を通し、その影響はブリテン島、イベリア、西アフリカ、そしてペルシャ湾にも広まった。

  アッシリア帝国は軍事力によって広大な領土を手に入れた。その革新的な兵法(騎兵隊、破城槌、ゲリラ戦)は無敵だった。治安を保つため、アッシリア王達は征服した領土に軍隊を置いた。これらの軍隊は外国人傭兵(雇われ兵)であることも多かった。軍隊を一つの戦地から別の場所へと迅速に移動させるため、アッシリア人達は道路を作り、不穏な気配があればすぐに王に伝達できるよう、郵便システムを開発した。この伝達システムにより、征服した土地を支配している長官達の忠誠心についてスパイ達が王に情報を与えることもできるようになった。長官の職務は、道路を維持し、軍隊や出張中の要人達を養い、商人達を保護することだった。

  アッシリア人は税と軍事力によって厳しく人口統制を行った。征服した土地の人々が抵抗すると、アッシリア側は問題を起こす指導者を帝国の別の場所へ「追放」することで支配した。こういった戦略が上手く行かない時、帝王達は従順でない都市に対する見せしめとして破壊や虐殺を行った。あるアッシリア王は、9つの都市と820の村を破壊し、バビロンを焼き払い、そのほとんどの住人達の殺害を命令したと自慢した。他の王は捕虜3000人を焼き殺したことを誇った。更に別の王は、反乱軍の首謀者をむち打ち(皮剥ぎ)にしたり、牢に幽閉したり、串刺しの刑に処するなどして鎮圧したことで知られるようになった。

  アッシリアの領土が広がるにつれ、経済も成長した。土地の天然資源は限られていたが、その立地は経済的恩恵をもたらした。彼らは、貿易商達がユーラシアのステップ地帯から馬を運んでくる山道を管理した。アラビアのラクダの道からはスパイスや半貴石が届いた。最も重要なのは、拡大中のフェニキアの貿易網によって、アッシリアは地中海の市場に簡単にアクセスできるようになったということだ。フェニキア人達は、主にイベリア半島の鉱山から採掘した膨大な量の銀をアッシリア軍に支払った。フェニキアの貿易はアッシリアにとって重要だったため、帝王はティルス、シドン、ビブロスといったフェニキアの都市の独立を認めたが、代わりにアッシリアを通商に参加させ、相当な額の年貢を納めさせることとした。

  アッシリアは、征服した国に年貢や税金を要求することによって、その拡大にかかる資金の大部分を調達していた。また、征服した土地からの略奪行為によってその富は拡大した。アッシリアの厳しい統治と荒廃的な経済政策の下で、帝国の人民は不休であった。反乱軍が起こると、その抑止はアッシリアの資力に対してかなりの負担を与え始めた。そのため、紀元前612年にカルデヤ人とバビロニア人の反乱が起こった時にアッシリアの支配が崩壊したのも無理はなかった。アッシリアの首都ニネベは灰になるまで焼き払われた。こうしてアッシリアの権力は消滅した。

  アッシリア帝国の成長は紀元前1200年〜紀元前600年頃におけるインドから地中海にかけての地域の発展において重要な役割を果たした。アッシリアは、広大な土地を支配する新しい方法を開発した。その方策の幾つかは残酷であったが、上手く組織化された運営、郵便システム、道路網などは、後の統治方法の標準的手段となった。また、アッシリアは貿易の拡大に対して多大な貢献を果たした。彼らのおかげで民間の商人が利益のために貿易することが可能になった。 こういった起業家達は、保護された道路システムを間違いなく使っており、西方はギリシャ人やフェニキア人、南方はアラブのラクダ商人、そして紅海やペルシャ湾の海上商人を含むはるか遠方の貿易網の一部となった。更に、抵抗を抑えるために征服した土地の人民を移動させるというアッシリアの政策は、それ以前のどんな帝国においても起こり得なかったほどの大いなる異文化交流へと繋がった。

レッスン5
生徒用ハンドアウト5.2


               アッシリア人の財政

  貨幣は紀元前6世紀まで作られなかった。そのため経済交流は専ら物々交換であり、税金なども物納であった。「タレント」の重さ、つまり重さの共通尺度も、場所や時代によって異なった。一般に、金1タレントは銀1タレントの2倍の価値とされた。ここでの活動の目的は、銀1タレント(100ブロス(45kg))について考えることである。1タレントの60分の1が1マインである。

             ◆ある都市からの貢納(無条件の)

 サイ  男性捕虜(若い兵士)
 レイヨウ  女性捕虜
 メスの象  ヒトコブラクダ
 貨幣  フタコブラクダ
 黒人  真鍮の巨釜
 小さな牙で出来た箱  象牙
 王族の娘  弓(武器)
 指輪 小さな丸太 
 馬 羊 
 やぎ 牝牛 

       ◆都市カルケミシュの王サンガラの貢納(アッシリアに支配された後の支払い)

              ・服従の証として支払った貢納

 金(2タレント)  銀(70タレント)
 銅(70タレント)  鉄(100タレント)
 赤紫の羊毛(20タレント)  ツゲ材(500本)
 羊(5000匹)  牝牛(500匹)
 サンガラ王の有力部下の娘(100人)  サンガラの娘と付き人

                   ・毎年貢納分

 金(1マイン) 銀(1タレント) 
 赤紫羊毛(2タレント)  
                      ◆
                  ・宮殿に課された税金 
 銀(20マイン)  銀の皿(20枚)
 銀(2タレント)  金の飾り輪(1つ)
 ゾウ騎乗用の覆い1枚 10枚の大きな衣服 
 3艘の船  魚20紐
 下着(10着)  キトン(50着)
 キトン(衣服)10枚  綿製下着(4着)
 ハサイ国のテントカバー(15個)  
                  ・王子に課された税金
 下着(5枚)  リンネル製衣服(5枚)
 銀(5マイン)  船1艘
 魚1紐  魚100匹
                ・宮殿の女性1人に課された税金
 銀(5枚)  下着(5枚)
 キトン(5枚)  船1艘
 魚1紐  魚100匹
                  ・御者に課された税金
 銀(1マイン)  下着1枚
                     ◆戦利(略奪)品

                    ・ある都市からの戦利品①
 金(3タレント) 銀(100タレント) 
 銅(300タレント) 鉄(300タレント) 
 青銅の巨釜(1000個)  レバノン杉の丸太(100本)
 多様な色の糸からつくられた衣服(1000着)  
                    ・ある都市からの戦利品②
 レバノン杉の樹皮からつくられたロバの積載物(2つ) レバノン杉の丸太(100本) 
 紫の羊毛(2タレント)  ツゲ材(500本)
                    ・ある都市からの戦利品③
 王 王の娘 
 王の息子 奴隷 
 宮廷の女性たち 金製の扉 
 馬具を装備した馬(チャリオット) 二輪馬車 
 軍隊  捕虜
 羊  牝牛
 ロバ 宮廷の財産
 紫の羊毛  ミツマタの道具
 神々  
                  ユダヤからの戦利品
 金(30タレント) 高価な石
銀(800タレント)  アンチモン
 赤石を大きく切ったもの  象牙が散りばめられた長椅子
 象の皮革  象牙が散りばめられたnimedu chair
 黒檀  ツゲ材
 王の娘とめかけ  
 あらゆる種類の価値ある宝  


ハンドアウト5.3「アッシリア帝国の展開(地図)」

ハンドアウト5.4「地中海の政治権力 紀元前620年頃(地図)」






          レッスン6 宗教:ユダヤ教とヒンドゥー教

手順

 1.生徒にユダヤ教とヒンドゥ教についての情報を与えなさい(ハンドアウト6.1を使う?)。教科書かハンドアウト6.16.3の間違い?)を使って、古イスラエル、古バビロニア、アルメニア、カイバル峠、インダス川、ガンジス川の場所について必ず生徒に確認させること。

 2.生徒にハンドアウト6.2を配りなさい。生徒にバビロニア、ヒンドゥ、ヘブライの三つの 洪水物語を読ませなさい。

3.生徒を小グループに分け、3つの物語に共通する部分についてカテゴリー化しながら表を作成するように指示しなさい。カテゴリーには、「洪水の理由」「ボートの説明」「神(神々)の関係」などを含むことになるかもしれない。

4.各グループから書記を選び、黒板の前に出して、マスターチャートに情報を付け加えさせなさい。

5.マスターチャートを用いて、物語の差異や共通性について教室で議論し、ここで示されているアイデアや、それらのアイデアの関係について物語は何を指し示そうとしているのか考えさせなさい。

評価
生徒に彼らのチャートにある情報を活用させ、三段論法を書かせなさい。




レッスン6
生徒用ハンドアウト6.1


                ユダヤ教とヒンドゥー教

紀元前1200年~紀元前600年、二つの宗教がインドから地中海にかけての地域で根付いた。ヘブライ人の宗教であるユダヤ教と、北インドで誕生したヒンドゥ教である。これらは世界でもっとも影響力のある宗教のうちの2つを形成するようになった。

ユダヤ教
 ヘブライ人、もしくはユダヤ人、そして彼らの宗教であるユダヤ教の起源については研究者たちにとって謎のままである。特に重要な証拠は、『トーラ(律法)』、キリスト教の伝統では『旧約聖書』と呼ばれる初期の5つの本の中に見つけることができる。『トーラ』はユダヤ人の誕生と初期の歴史について語る本を集積したものである。それは、私たちの知るところで、他の古代人よりもずっと詳細かつ生き生きとした説明である。それは、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーゼ、ヨシュア、ダビデ、ソロモン、その他世界における自身の存在を証明してもらうために神と特別契約をしようと葛藤するとても堂々とした人格者たちの物語である。彼らは編みの下す命令に従おうとし、またより道徳的かつ倫理的な生き方を導こうとした。これら英雄たち全てが必ずしもいつも美徳のこうした基準に合あった行動をとろうとするわけではなかった。実際、これはヘブライ聖書に特別なる劇的な力と道徳的なパワーをもたらす後退と贖罪の物語なのである。

ヘブライ人たちはレバントの南部、肥沃な丘の国カナンに住んでいた。紀元前11世紀から紀元前9世紀にかけてのある時、ヘブライ人たちはイスラエル王国を建国し、エルサレムという小さな都市を首都とした。彼らは丘をひな壇形に整理し、果実のなる樹木を植え、慎み深い農業経済を築き上げた。聖書になると、そしてその他の証拠がぼつぼつ語るところによると、イスラエル国家はサウル、ダビデ、ソロモンという紀元前11世紀から紀元前10世紀にかけて生きていた3人の成功した王様のリーダーシップの下で成立した。ソロモン王の統治の後、この国は北側がイスラエル、南側がユダ(これがユダヤ教ユダヤ人と言う言葉の由来となる)に分裂した。

南西アジアの事実上全ての国々と同様に、イスラエルも一神教の国であり、ヤハウェという神を奉った。やがて教義は、ヤハウェが排他的なユダヤの神だったと主張するようになった。ユダヤ人は神が自らの神聖なる法を地球上に築くために、そして人類のために自らの聖なる計画を成し遂げていくために、その手段として彼らを選び出したと信じるようになった。ユダヤの男女は神の定めし命令、儀礼、飲食のルールに従おうとした。人間はもはやただの気まぐれな神々の人質ではなかった。各個人の道徳的な行動が彼らの運命を決定した。彼らの神との関係は、彼ら自身の手の中にあった。

紀元前8世紀に、アッシリア人はイスラエルとユダの両方を征服し、ユダヤ人の指導部の一部をティグリス川流域に追放した。ヘブライ人は古代において完全な独立を回復したことはなかったが、宗教は生き残った。当時の人は誰も、この小さなヘブライ人の農民の一団から一神教、つまり普遍的な神の信仰の伝統が創造されると予測する者はいなかった。ユダヤ教が2つの他の主要な一神教、すなわちキリスト教とイスラム教の根源的な宗教になるとは誰も予測できなかったのである。

ヒンドゥー教
 紀元前1500年頃、インド=アーリア言語を話す遊牧民族は、ユーラシアの内陸からカイバル峠を渡ってインドに移住したが、その数についてはほとんど分かっていない。いずれにしても、彼らは先住民であるドラヴィダ言語を話す人々に対して軍事的支配を実行した。 最終的に、彼らはインダスとガンジス川流域の平野に定住し、独特の社会構造を持つ農耕文明を生み出した。おそらく多くのドラヴィダ人との結婚が起こったと思われる。紀元前 7世紀半ばまでに、この文明はマグバッダ王国の基礎となった。

カースト制度のはじまり
 世界の他の地域と同様に、インドの複雑な社会は社会的分断を含んでいた。一番上の層にいる少数のエリート層は、権力、権限、富、特権の大部分をその手に集中させた。大部分を占めていた他の人たちは、一生懸命働いても、それらのほとんどを手に入れられず、ほとんどの時間、彼らの命令に従うだけであった。インドでは、この社会的分断のシステムは、何世紀もの間に、特に精巧で硬直的になった。それは英語でカースト制度と呼ばれている。
 カースト制度は後々のインドの歴史においてまで完全に存在していくわけではなかったが、根本的には4つのレベルの階層的システム(ヒンディー語ではヴァルナ)と関わることとなった。これは以下のようなピラミッドであると考えると、最も理解できる。

バラモン…カーストの最上位、インド=アーリアの神々を満足させるために聖なる儀式を行うことを主な生業としている聖職者の家族である。

クシャトリア…政治家の家族である。彼らは聖職者の宗教的権威と協力して支援し、土地の富を彼らと共有した。その代わりに、聖職者たちは神々に社会を讃えるように祈願し、人々にクシャトリアに従うように指導した。

バイシャ…この世界の冨のほとんどを生産する農民、狩猟民、商人、職人である。

シュードラ…最下層にいる彼らは、他のグループに社会的に蔑まれる傾向にあり、彼らは肉体労働に従事する。

徐々に、この社会的秩序は精巧な習慣が強制されるようになった。誰がどの仕事をするのか、誰が誰と食べることができるのか(できないのか)、誰が誰と婚姻するのか(結婚することができないのか)、誰が儀式的に「汚染された」人で誰がそうではないのか、ルールが存在した。後の世紀では、4つの主要なカーストは何百もの小カーストに分けられ、それぞれに複雑な義務とタブーがあった。時間が経つにつれて、こうしたカーストと小カーストは固定的なものとなった。例えば、衣類を洗う小カーストの一員として生まれた場合、その人の子ども、その子ども、そしてそのまた子どもも衣服を洗濯する者となるわけである。

この4つのカーストに加えて、第5の「アウト・カースト」のグループの人たちがいた。その名が示すように、彼らはカースト制度の外に存在していた。そのような人たちは、汚れているとか「汚染している」とみなされた仕事に配属され。これらの仕事には、死者を焼却し、ゴミを処分し、死んだ動物の死体を処分することが含まれる。「アウト・カースト」は、4つのカーストの構成員から「触れてはならないもの」とみなされました。地域によっては、アウト・カーストの人々の影に触れるだけで、汚染され、儀式による清めが必要だとされたのである。

(注)インド政府はカースト制度を1949年に法的に廃止した。法律は都市中心部では効果をもったが、多くの地方のコミュニティにおいては、特にアウト・カースト(今日では「ダリット」と呼ばれる)に関して、カーストの制約は残ったままである。

ヒンドゥーの神々
 初期のヒンドゥ教の神学については主に、バラモンが用いているインドヨーロッパ語族であるサンスクリット語で構成された聖典集である『ウパニシャス』から知ることができる。紀元前800500年頃に登場したこれらのテキストは、宇宙の無限の本質とすべての存在の原則であるブラフマンの考えを示していた。ブラフマンは、宇宙の魂であり、すべての個体の魂を含むものである。この他の主だった神は、創造主のブラフマンの様相や出現である。これらの神には、救世主ヴィシュヌと破壊神シヴァが含まれ、どちらも多様な形で崇拝されてきた。ヒンドゥ教徒は他の何百もの神々を崇拝する。ヒンドゥ教は、中央集権的な宗教団体も、特定の教義群もない。ヒンドゥ教は、南アジアのさまざまな地域で様々な形をとり、地域の神や考え方を取り入れてきた。

輪廻転生
 紀元前6世紀までに、輪廻転生の概念がヒンドゥ教に登場した。輪廻転生とは、人が死ぬと、その人の魂が新しい体で再び生まれるという信念である。多くの存在の中で浄化された後、魂は最終的にこの現世から解放され、ブラフマンの魂と結びつく。

 したがって、ヒンドゥ教徒の生活は、ブラフマンとの一体化を目指す試みとなる。これは、自己知識、生産的労働、家族、職業、および階級の儀式と義務に対する厳格な献身を伴う道徳的法(dharma)への従順によって試みられる。要するに、より高いカーストに進むためには、最高のバラモン、クシャトリア、バイシャ、シュードラ、またはアウト・カーストになければならないというわけである。この進歩は、過去の人生の力であるカルマ(業)によって支配される。過去の人生で正しく生きていれば、より高いカーストに生まれ変わるかもしれない。人が適切な生活を続けるなら、彼女または彼はバラモンとして生まれ変わるだろう。そしてバラモンとして完璧な生活を続けていれば、魂は解放される。一方、正義の人生を営んでいない場合、その人は、より下層のカーストになり、さらに悪い場合は動物として生まれ変わる危険がある。人生における社会的階級は、自分の過去の人生を反映したものだ。このように考えられたのである。

 輪廻転生の主要な考え方は、厳格なカースト制度に対する宗教的支持をもたらすものであった。それは、上層階級の特権を極端に正当化し、逆にアウト・カーストの不当な扱いを過剰に正当化した。信仰によると、バラモンは(魂が)以前の身体にあるときに良い生き方をしたことから明らかに高い地位を得たのであり、アウト・カーストの者たちは、以前の身体にあるときに悪い生き方をしていたのであり、軽蔑されることが正当化されたのである。それと同時に、輪廻転生は、多くの下層カーストの人たちやアウト・カーストの人たちに、彼らも次の人生では社会的なはしごの上にいるのではないかという希望を与えた。また輪廻転生は、カーストの最下層の人々の秩序を保つ傾向があった。人々が彼らの地位に反抗した場合、彼らは次の人生で彼らの魂が "上がる"ことができないとされていたからである。カースト制度は今日の21世紀においては、頑固で不公平で残酷であると思われるとして、それは議論の余地のある社会的活用であった。カースト制度は、社会の他のメンバーとの関係において、すべての個人が「どこに立っていたか」を知るための社会の枠組みを提供した。また、カーストと小カーストは、他の階級からの干渉を受けることなく、自分の内務を規定する特権を持っていた。急速な経済的または社会的変化の時代に、カースト制度は安定性のアンカー(拠り所)を提供した。しかし、その原則は、奴隷制度のように、今日、平等と人権という理想とは両立できないのであ




レッスン6
生徒用ハンドアウト6.2【生徒用の読み物】

                     大洪水

バビロニアの洪水物語
 バビロニアの神々は、人が多すぎてうるさくなりすぎるので人口の増加を気にしていました。地球に住む主神エンリルも眠れなかったのです。そのため、神々は人間を排除することで問題を解決しようとしました。疫病を流行らせ干ばつを起こしましたが、どちらの場合も、知恵と淡水の神であるエアが、攻撃を止めるために人間たちに正しい神(疫病の神ナムタルと雨の神アダド)に賄賂を贈るようにと忠告しました。疫病や干ばつは一時的に人口を減少させましたが、また人が増え過ぎてうるさくなるまでには時間がかかりませんでした。そこで、神々は今度は洪水を起こすことにしました。 

 またしても、神々の企ては、この世で最も賢いアトラハシスにエアが忠告したことで覆されてしまいました。エアはアトラハシスに家や持ち物を引き払い、長さと幅が同じ丈の船を造るように告げたのです。「生きとし生けるものの種」を船に乗せるようにとも言いました。 

アトラハシスは船を造ることに合意しましたが、近隣の人たちに何をやっているか見られたら説明すべきかどうか伺いました。エアは、エンリルに嫌われ乾いた土地にはもう住めなくなったので、これからはエアと一緒に海の上で暮らさなくてはいけないと伝えることを提案しました。 
 コミュニティの皆が「10ダース腕尺」[1腕尺は約18インチ]の四角形の巨大な船の建設を手伝いました。後にギルガメッシュにこの話をした時に、アトラハシスは造船に必要だったタールやピッチ、油の正確な量を伝えています。また、造船中に労働者が7200単位の油を盗んだ事件にも触れています。

船が完成すると、アトラハシスは家族や持ち物と、ありとあらゆる動物を船に乗せました。また、工芸の知識が生き続けるように熟練の職人も連れていきました。

神々に供え物を捧げたあと、アトラハシスはタラップを引き上げるように指示し、扉を塞ぎました。その後嵐が訪れ、67晩荒れ狂いました。地球が氾濫し、それは神々も恐れるほどでした。7日目に雨は止み、海は静まりました。アトラハシスは外を見渡し、船がニムシュの山に座礁していることを見ました。6日後、アトラハシスはハトを放ちましたが、乾いた土地を見つけられなかったハトは戻ってきました。次の日、ツバメを送り出しましたが、それも戻ってきました。3日目にはカラスが出て行き、戻ってきませんでした。 

アトラハシスが洪水を生き延びたことを知ったエンリルは激怒しました。その場で殺そうとしたものの、生き延びたのはアトラハシスのせいではないことをエアが指摘しました。そのおかげで、最終的にはエンリルも合意しました。そこでアトラハシス夫妻に永遠の命を与えましたが、「川々の源」で暮らすように遠くへ追いやりました。

ヒンドゥーの洪水物語
 昔々、マヌという強力な賢人がいました。マヌは父や祖父よりもずっと強く、またずっと偉くお金持ちでした。片足で立ち手を上げて、毘舎離にあるナツメの森で苦行の生活をしていました。そこで、頭を下げ目を保ち、厳しい苦行を10,000年もの間行っていたのです。 

ある日、髪はもつれ服も濡れたままで苦行を行っていると、チリニ川の川岸に魚がやってきて、マヌにこう言いました。「信心深きそこのあなた、私は身を守れない小さな魚、もっと大きな魚に食べられてしまうのが怖くて仕方ありません。偉大なる信者さん、どうか私を守っていただけませんでしょうか?救ってもらえるに値しませんでしょうか?」 

魚からこのような言葉を聞いたマヌは哀れみの気持ちでいっぱいになりました。水の中にいた魚を手に取り、月の光のように胴体が輝くその魚を、粘土でできた水の壺に入れました。そして魚を我が子のように大事にして飼いました。 

そのうち、魚は水の壺よりも大きくなってしまいました。ある日、魚がまたマヌに言いました。「もっと大きい住処を用意してもらえませんか?」そこで、敵対する街々の征服者であるマヌは魚を大きな水槽に移しました。水槽の中で魚はまた1年間育ち続けましたが、その後また、水槽よりも大きくなりすぎました。 

魚はまたマヌに話しかけました。「ああ、敬虔な父よ、大海のお気に入りの配偶者であるガンジス川で暮らせるように連れて行ってください。」マヌは頼まれた通りに魚を川へ放ってやりました。しかし、魚はガンジス川でさえ暮らすには大きくなりすぎた日がやって来たので、マヌに海へ連れて行ってもらうように頼みました。 

魚が巨大になっているにもかかわらず、マヌは簡単に運ぶことができました。魚が水に入ると、マヌにこう告げました。「世界を粛清する時が近づいています。全ての生き物の命運が尽きます。あなたは私を大変よく護って下さったので、これからやってくる恐ろしい洪水からあなたをどう救うか教えましょう。大きく頑丈な舟を造り、長い縄を備えなさい。船の中に入り、7人の賢者を連れ、在りし種子を乗せて大事に別々に保存しなさい。そこで待っていてくださったら、私は角を生やした魚としてあなたの前に現れるでしょう。」

  そうして魚は遠くへ泳いでいったので、マヌは言われた通りにしました。洪水が押し寄せて来た時、マヌは縄や7人の賢者、種子を乗せて航海に出ました。水は全てを覆いました。船と、マヌと、7人の賢者のみが見えました。角を生やした魚が水から岩のように現れ、マヌは輪縄を作り魚の頭へ輪をかけました。魚は荒くれる海を渡り雪山の頂上へと船を引っ張り、マヌに山に船をくくりつけるように言いました。そして魚はこう言いました。「私は生きとし生けるものの主、ブラフマン。マヌ、私はあなたを洪水から救いました。あなたは大地に全ての生き物を再創造するでしょう。苦行を行うことで、あなたはその力を手にいれるでしょう。」

言い終えるないなや、魚は消え、マヌは全ての生き物の創造に取り掛かりました。

ヘブライの洪水物語

創世記 6
 これはノアの話です。ノアは公正で、当時の人々の中でも罪がなく、神と共に歩む男でした。ノアには3人の息子セム、ハム、ヤペテがいました。神の目には大地は堕落し暴力が溢れかえっているように映っていました。神は地球が頽廃し、人々が不道徳な道を歩むようになっていることを見ていました。そこで神はノアに、こう告げました。「人々のおかげで大地が暴力で溢れかえっている。私は人類を終わらせます。間違いなく、人々も大地も破壊するでしょう。あなたはイトスギを使って箱舟を造りなさい。中には部屋を用意して、中からも外からもピッチを塗るのです。私は大地に洪水をもたらし、天の下にある命、命ある生き物一匹一匹を全て破壊します。地の上の全てが消し去られるでしょう。だが私はあなたと契約を結びましょう。あなたは息子達も、妻も、息子達の妻たちも連れて箱舟に入りなさい。箱舟には全ての生き物を、オスとメスのつがいで乗せて生かせなさい。食べられる全ての種類の食べ物も積み込み、あなたと他の生き物たちのために蓄えなさい」。ノアは神のお告げの通りにしました。

 創世記 7
 次に神はノアにこう告げました。「箱舟に乗りなさい。あなたもあなたの家族も。あなたはこの世代において公正な者です。今から7日後に、大地に四十日四十夜雨を降らし、私が創造した生き物を一匹残らず大地から消し去ります。」そこでノアは息子や妻、息子の妻たちと一緒に箱舟に乗り込み、洪水の水から逃れました。そして7日後には洪水が大地を襲いました。ノアの人生の600年目、2ヶ月目の17日に偉大なる深い泉が沸き起こり、天の水門が開かれました。雨が四十日四十夜と大地の上に降り続けました。水面が上昇し、大地の上に増え続け、箱舟は水面上に浮かびました。大地の全ての生き物が消滅しました。人間も動物も地を這う生き物も宙を飛ぶ鳥たちも一匹残らず消えました。生き残ったのはノアと、一緒に箱舟に乗った生き物たちだけでした。 

 創世記 8
 しかし神は箱舟の中にいるノアや野獣たちや家畜のことを忘れてはおらず、大地の上に風を吹かせると水が引きました。偉大なる深い泉も天の水門は閉ざされ、空から降る雨も止みました。そして7ヶ月目の17日目に、箱舟はアララト山の頂上で静止しました。ノアは40日後に箱舟に造った窓を開けてカラスを放つと、カラスは大地から水が乾くまで行ったり来たりしました。次に鳩を送り出し、地面から水が引いたか確認しようとしました。しかし大地はまだ水で覆われていたため、鳩は着地する場所を見つけることができず、ノアの箱舟に戻ってきました。ノアは手を差し出し鳩を箱舟の中に連れ戻しました。7日間待ってから、また鳩を箱舟から放しました。夜に鳩が戻ってくると、くちばしに摘み取ったばかりのオリーブの葉をくわえていたのです!それでノアは大地から水が引いたことを知ったのです。ノアはさらに7日間待ってからまた鳩を放ちましたが、今度は戻ってきませんでした。2ヶ月目の27日目には、大地は完全に乾いていました。そして神はノアにこう告げました。「箱舟から出てきなさい。あなたもあなたの妻も息子たちも息子たちの妻も。あなたと一緒にいる全ての生き物を出しなさい。鳥も動物も地を這う生き物たちも。この大地で繁殖し栄え、数が増えるように。」そこでノアは、妻や息子たちとその妻たちを連れて箱舟から出てきました。全ての動物や全ての地を這う生き物、そして全ての鳥大地の上で動く全てのものが箱舟から1種類ごとに降りてきました。そしてノアは主のために祭壇を造り、清き動物や鳥を何匹か焼き、供物として捧げました。

創世記9
 神はノアとその子らを祝福して言われた「実り多いものであり、数を増やして地を満たしなさい」

新国際版聖書


ハンドアウト6.3「インドから地中海にかけての地域の洪水物語(地図)」






本単元と3つの本質的な問い

 人間と環境  紀元前1000年からの1000年間の鉄加工技術の普及は、アフロユーラシアのさまざまな地域で森林伐採の増加の原因となった可能性が高いのはなぜですか?今日の鉱業は森林減少の一因となっていますか?もしそうなら、どのように鉱山会社、政府、環境団体は問題に対処してきたのだろうか?
 人間と人間  1998年現在、およそ767424,000人がヒンドゥ教徒と認識されています。ユダヤ教徒は約1505万人です。どのような長期の歴史的要因が、これら紀元前1000年からの1000年間の間に登場したこの2つの世界的信仰に従う人々の数の大きな違いを説明してくれますか?
 人間とアイデア  アルファベットと、表象文字の文字ベースの筆記システムの基本原則を調べなさい。これらの原則はどのように異なるのですか? それぞれのメリットとデメリットは何ですか? アルファベットのシステム(たとえば、私たちが用いている「ローマ」字のアルファベットなど)や表象文字の体系(たとえば中国語の文字システム)のどちらも、今日世界において完全に支配的になってはいないと思われる理由は何ですか?